目に見えないものを想う事

(神様に祈るという行為)

 

イギリスのデザイナーのライアン ガインダー氏は、日本人のこの不思議な行為に触発されてコンセプチュアルアート(概念芸術)を描いている。

 

イギリス人の彼はこの習慣を異国の日本で見たときに理解できずに驚き触発され閃いて新しい芸術のカテゴリーを作り上げたのだ。

 

スタバはミラノのカフェでそのアイデアは閃いたし、クロネコの宅急便はNYの配達員をみて小口配達のビジネスを閃いた。そう「移動距離とアイデアは比例する」のだ。デスクの上には閃きの神様はいないのでる。

 

目に見えないものを想う力を日本人は持っているというテーマである。それはなんだろうか?

 

西行が伊勢神宮から感じた事をこんな文章にしている。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 」

 

誰が何が そこにいらっしゃるのかあるのかは判らないけど そこにいらっしゃるだけのありがたさで 涙がこぼれてしまう。つまり畏怖の念が自然に湧いてきて、お願いごとや感謝の意を表して、逆に神様から大きな安心感や元気をもらっていることに喜びを感じる事ができる。ここが「日本の精神文化の根源」ではないだろうか?

 

日本は四季と海に囲まれて、中央には山脈が走り川が勢いよく流れて刻々と平野はその姿を変えていく、そんな豊かな自然が、日本人の精神を創造したのだと思う。無数の神様に守られ、守って日本人は生活してきたのだと思う。

 

本来目に見えない物を感じる事ができる我々は、戦後の思想や文化や教育、経済の成功を大きく受けすぎてはいないだろうか?目に見えるものだけを「正しい」と判断して大きな間違いを起こしてはいないだろうか?もっと個性があってのびのびとした国民性ではなかったのだろうか?世界基準という罠にはまっているのではないか?

目に見えるから信じるのではなく「目に見えないもの」に大きな価値を自ら見いだしていく、言葉を変えれば価値をつけていく事が個性の素晴らしさではないだろうか?

いつの間にか「ロジカルな罠」に捕まってはいないだろうか?

 

秋葉の文化はロジカルからうまれただろうか?いや絶対にロジカルからは生まれてはいない。秋葉の文化はきゃりーぱみゅぱみゅを生んで世界を席巻している。秋葉の文化は目に見えないものに「価値」をつける事で生まれたのだ。それが世界を席巻すると誰がロジカルに考えられたであろうか?どのシンクタンクも誰も予測できなかったのだ。

これは現代の浮世絵ではないだろうか?

西欧文化がこぞって浮世絵の技法を真似たように、きゃりーぱみゅぱみゅに憧れて、それを西欧文化が真似しているのだ。

 

理論思考から感性思考への変換が必要な現代ではないだろうか?

それを本来日本人は得意としていたのではないだろうか?

 

定期的に来日するライアンガイダー氏は言っている。

「五感を感じる事が、日本人は少なくなってきている」

 

インターネットの普及は便利な世界に貢献しているかもしれないが思考するという時間を人間から取り上げていないだろうか。電車に乗ると一斉に携帯を取り出してゲームや検索で時間を費やす。

紙の感触を感じながら本を読んだり、何かを考えたりできた時間が今やIT産業にとられてしまっている。

 

考えたり感じたりする前にキーボードを叩けば、一般的な既成の答えが殆どそこにあると誤解する。そして大多数はそれが正しいと自分の考えなしに認識されていく。実は大きな罠に落ちている。

 

理論一辺倒ではINNOVATIONはおこらない。閃きはロジカルな考えの中では現れようとしない。閃きは目に見えない世界から求める人だけに急にその姿を見せてくれる。INNOVATIONは極めて人間的な発想と意見のぶつかり合いの産物である。

 

それでは今年最後の言葉を贈ります。

10年前に残された言葉を。

 

日本は戦後の経済成功の意味を問い直すべきである。

近代の産業経済に適用された成功の尺度や進歩の基準は

もはや陳腐化している。

日本のこれからのあるべき進路は一つ。

これまでの価値を転換して、生活の楽しみ追求のモデルを世界に示すべきである。(2003年 日本経済新聞)

ジョン ケネス ガルブレイス

 

皆様よい年をお迎え下さい

一年間のご愛読感謝いたします。

少しでも発想の転換や閃きに役に立てれば幸甚です

来年も宜しくお願いします。