SAMURAI JAPAN

ついにワールドカップが終わってしまった。早朝から熱い戦いを観戦出来たのは幸せであった。ゲームは決勝に近づけば近づく程、戦術やフォーメーションを超えた勝利へ執念を持ったチームに気まぐれな勝利の女神が微笑みをかけてくれるようにも見えてくるが、彼女はネイマールの怪我のように計算外の「意味不明の悲劇」をももたらす。

それにしてもアタックとディフェンスが交互に繰り返される戦いは見応えがあった。特にディフェンスに感動した。体を張ってディフェンスプレイヤーは執念で、頭からもしくは足から飛び込みチームのいや国のピンチを凌いで行く。もちろんルールの中においてだが。ペナルティーエリアにボールが持ち込まれると緊張感に会場は包まれる。

そこには決められたカタチみたいなモノはなくて、懸命に国を背負った代表としての魂が純粋にルールに則ってただ勝利の為だけに躍動しているのだ。魂の叫びがあるのだ。

それにしてもサムライジャパンである。
「絶対に負けられない戦い」って何だ?!選手 マスコミ サポーター 全員が一丸となって必ず「優勝する」と 大騒ぎした現象はいったい なんだろうか?ある選手の強気な発言をマスコミが視聴率確保の為に後押しして、周りも「そんな事は難しい」と言えない雰囲気にしてまったのではないだろうか?マスコミは冷静な意見もきちんと伝えるべくではないだろか?
ランキング的にみてジャパンが優勝する事は0%に近いのは誰でも解る事だと思う。ベスト16に入れば上出来だと解っていた事ではないだろうか?ポジティブ精神は良いのだが「竹槍でB29」を落とせるような社会の精神構造にしてしまう行為がいやなのだ。
古くは元寇来襲で2度にわたり神風がふいて日本を守ったいう日本の歴史がある。これを神の国だから守られている、相手が実力的に強くても「神の国」だから神様が守ってくれて弱いのだけども「負けない雰囲気」に転換させた事がある。この思想ににてはいないだろうか?第2次大戦中に大本営発表で明らかに負けているのに 勝ち続けているとしか言わない、そしてそれを信じないと「非国民」とされるあの雰囲気にどこか似てはいないだろうか?スポーツとしてのサッカー以外の要素が入っているような雰囲気が気味が悪いのである。実際にこの作られた言葉が重過ぎて、選手は体が自由に動けなかったのではないか?もっと戦えたのではないか?1勝は出来たのではないか?
最も負けていたのは、気持ちをプレイで現す事だ。泥臭い執念のような魂の叫びがピッチからは 何も聞こえてこなかった。そこが最も悔しい。南米の選手は欧米に比べると、日本人同様に小さいが「執念」は全くひけをとる事なく戦っていた。90分ただひたすらに勝利を信じてピッチで躍動していた。背丈の問題や足の長さ、つまり体型の「差」ではなく「気持ち」の「差」で勝負は決まるという事だ。

ロシア大会での新しいSAMURAI JAPANの躍進を楽しみにしたい。