不思議な時間感覚の歴史である。
今日は200年という単位について語りたいと思う。
200年である。到底一代で200歳までは今のところ生きることは出来ない。
出来たとしてもそんなに長く生きようとも思わないが。
現実的に言えば80歳の人生が二人にそして三代めの人生ぐらいの換算が必要ではないだろうか?
信長の時代は人生50年だから5代目か6代目の時間の長さである。
京都は面白いのである。何が面白いって年代の感覚が面白いのだ。
この感覚が面白いところにヒット商品は眠っている。
時代の価値観のズレに新しいコンセプトが眠っているのだ。
もちろん面白いと思えるsensibility(感性)を自分が持たなければこの面白さは見えないのだが…
金閣寺にとある大手の宣伝広告会社が企画の申請をして、何とか金閣寺から了承を得たことがあった。ところがその大手の広告会社はやってはいけない事を仕出かしてしまったのだ。京都1700年の規律を破ってしまったのだ。
その結果、金閣寺からその大手の宣伝広告会社に言い渡された内容が面白いのだ。
「出入り禁止200年」
を言い渡されたのだ。末代までその汚名を背負ってしまったという事に他ならない。200年後、いい渡した人も居ないだろうし言い渡された有名な宣伝広告会社もいないのかもしれない。
しかし、200年後 金閣寺は残っていると思う。なぜなら1000年以上生きてきたのだから。
今までも存続してきたのだから金閣寺にとって200年はそんなに長くないのかもしれないのだ。
京都は過去の感覚が実は今も行き続けているのだ。
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